濃姫(織田信長の妻)の生涯、光秀との関係性や養華院説など

2019年12月5日

暮らし 歴史

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戦国時代の大名、織田信長の正室として知られる濃姫(のうひめ)。

2020年のNHKの大河ドラマで、その濃姫の配役が変更されることになりましたが、

「そういえば濃姫って、最後はどんなふうに亡くなったんだっけ?」と、ふと気になったのでWikipediaを中心に調べてみました。


濃姫は名前がいろいろ!

このブログでは濃姫といっていますが、便宜上いっているだけです。

濃姫というのは、美濃という国(地域)のお姫様であることをあらわしています。


他には帰蝶(きちょう)、胡蝶(こちょう)、鷺山殿(さぎやまどの)とする書物もあり、定まっていません。

私個人の記憶でも、ドラマ、漫画、ゲームなどから於濃(おのう)、於濃の方(おのうのかた)と聞いた覚えもありますし、認識のされ方はいろいろ。


これが豊臣秀吉の正室みたいに、時期によって呼称が変化するならわかりやすいんですけどね。


秀吉の奥さんの場合、まだ身分の低いときに結婚した時点では、「ねね」とか「おね」など。

秀吉が出世して関白になったときは、北政所(きたのまんどころ)。

秀吉死後は出家して、高台院(こうだいいん)。



織田信長の正室なら死後は葬儀がおこなわれ、法名もつけられ「~~院」とか残るはず。

これ、濃姫のことなんじゃない?と考えられている事例もあることはあるけれど、まちがいなく濃姫であるということを証明できるほどの資料がまだ出揃っていない。


濃姫が織田信長と結婚する前にも結婚していた?

濃姫の父は、美濃(現在の岐阜県)に拠点を置く斎藤道三(さいとうどうさん)、母は道三の正室の小見の方(おみのかた)。

斎藤道三は、土岐家や織田信長の父、織田信秀と敵対していたので、関係を改善するために織田家と和睦、双方の子供同士で縁組をすることになりました。

この時代にはよくある、政略結婚ですね。



濃姫は信長と結婚する前にも、土岐頼純(ときよりずみ)と政略結婚していたという説もあります。


斎藤道三がもともと仕えていたのは土岐家で、誰が後継者となるのか家督をめぐって土岐一族間で争いがおきます。

戦い始めてから30年近くたってようやく収まるのですが、そのときの和睦の際に土岐頼純と斎藤道三の娘が結婚することに。


斎藤道三には側室もいて、道三の後継者となった斎藤義龍(よしたつ)は側室・深芳野(みよしの)の子。

義龍がうまれた1527年よりも後に、小見の方を正室に迎えたらしい。


道三は1494年生まれということなので、30歳を超えて正室というのがちょっとひっかかる。

側室を持てる身分であれば、小見の方のまえにも正室がいて、娘がいたとしてもおかしくはない。

土岐頼純と結婚したのは、その前正室の娘とか?

側室の深芳野以外にも側室はおり、そちらの娘ということも考えられます。



斎藤家、父娘の会話

織田信長に嫁ぐこととなった濃姫には、ある有名なエピソードがあります。

父・斎藤道三から「信長が評判どおりのうつけ者であれば、短刀で刺せ」というもの。


創作されたお話だと思っていましたが、今回濃姫について調べていたら、そういう話が作られてもおかしくないなと思う点が出てきた。


まず、前述の土岐頼純。

斎藤道三の娘と結婚した翌年に、24歳という若さで没している。死因ははっきりしない。


もう一人、道三の娘と結婚した人物に、土岐頼香(ときよりたか)という人がいる。

こちらは寝所に刺客を送り込まれ、自刃したとある。


夫がどこで何をしているか、ふだんどう過ごしているかなど、妻を通して情報を得やすい。

土岐頼純も暗殺されたのでは・・・と考えられなくもない。


斎藤道三が味方をしていた土岐頼芸(ときよりあき)の弟も毒殺しており、土岐家を見限って自分が支配しようという斎藤道三の野心が感じられます。


こうしたことを踏まえると、信長と結婚することとなった濃姫とのエピソードも、ありえない話じゃないなと思えるわけです。


濃姫と明智光秀との関係性

濃姫と明智光秀はいとこ。

これもよく知られた説ですが、どういうつながりのいとこなのかは、調べたことがなかったので、今回調べてみました。


いとこ説の発端は「美濃国諸旧記」という江戸時代に作成された作者不詳の書物。

これには美濃の武家に関する情報が多く記されており、これが出展元となって伝わっているお話も多い。



この「美濃国諸旧記」によると小見の方の父親は明智光継(あけちみつつぐ)。

明智光継の子に明智光綱(あけちみつつな)がおり、明智光秀はその光綱の子とみられている。


明智光継
├─────┤
明智光綱  小見の方
│       │
明智光秀  濃姫


小見の方を中心にみると、兄の子が光秀で、娘・濃姫とはいとこという間がら。

ただ、明智光秀の出自がはっきりつかめていないため、仮説止まりの状態。



光秀の父と考えられる光綱は、斎藤道三に居城を攻められ討ち死にしたという。

光綱の弟、光安が明智家を引き継ぐが、道三の後を継いだ斎藤義龍に攻められ自刃、美濃明智氏としてはここで一度滅んでいる。


光秀の立場で考えると、斎藤家は明智一族の仇敵。濃姫は父親の仇の娘。その娘の夫が織田信長。

でも信長は斎藤家を滅亡させている。


仮に濃姫と光秀がいとこだったとした場合、光秀は親密に接することができただろうか?

戦国時代ではありがちな事例かもしれないけど、自分が光秀の立場だったら複雑すぎて頭がおかしくなりそうです。



資料が少なく、濃姫の生涯はほとんどわからない

濃姫が関わったこととしては、斎藤家の菩提寺・常在寺に斎藤道三の肖像を寄進したという記録が最後。寄進したというのもいつのことなのか、定かではない。


信長が生存中、濃姫が亡くなっていれば、葬儀がおこなわれ、新たに信長の正室が輿入れするという記録があってもよさそうなもの。

離縁した場合も同様。



本能寺の変の際に、濃姫も一緒に亡くなったとか、家臣が濃姫の遺髪を持ち去り、埋葬したという説もある。

でも、本能寺の変で濃姫も亡くなったのなら、ちゃんとお葬式もされるだろうし、それはさすがに記録として残されると思う。


織田信長ほどの人物の正室ならもっと記録があってもと思うのですが、濃姫が結婚して以降、ほとんどわからないのが現状。



濃姫かどうか、不明なたち

織田家の誰のことを指し示すのか、判明していない名前もある。

「氏郷記」と「妙心寺史」

信長の娘を正室とした蒲生氏郷(がもううじさと)について書かれた「氏郷記」では、本能寺の変の際、氏郷の父・蒲生賢秀(がもうかたひで)が、安土城にいる信長の御台君達などを日野城へ移動させたと記されている。

「妙心寺史」というお寺の記録をまとめた書籍では、信長の一周忌の法会を信長公夫人の主催で執り行ったとある。


御台君達の御台は信長の正室のことを指すのはわかるが、そのころに濃姫が生きていたのか、すでに亡くなっていて別の正室のことを言っているのか、判断がつかない。

後者の信長公夫人にいたっては、正室なのか側室なのかもわからない。


「織田信雄分限帳」のアツチ殿

信長の次男、織田信雄(おだのぶかつ)が記録した「織田信雄分限帳」というものがある。

当時、誰が配下にいてどれだけ知行(お給料)を得ていたかをまとめたものです。


この名簿に信雄正室・御内様、信雄の実の妹・岡崎殿、信長の生母・土田御前を指すと推測される大方殿様、信長の姉妹・犬山殿、小林殿などの名前があり、そのなかに「アツチ殿」という名前もある。

アツチが安土のことであれば、「安土殿」となる。


岡崎殿は信長の娘・五徳、岡崎城を支配する徳川家に嫁いだ女性。

犬山殿、小林殿もそれぞれ夫がその名の城主だったりする。


安土殿は安土城を所有する夫を持つ女性ということに。

となると、安土殿は織田信長が夫の濃姫と考えたくなります。

でも、織田信雄も安土城主なので、彼の側室かもしれない。


「大方殿」とあれば、信長の母を指すのは想像がつく。

正妻のことを御台というのはわかるけど、信雄のように、生母ではない正室の女性のことは、ふだんなんと呼んでいたのだろう?

実の父親の正室を「安土殿」というのもへんな感じがする。


1590年に豊臣秀吉の命令で織田信雄は改易されるのですが、信長の母・土田御前は伊勢国安濃津の織田信包(おだのぶかね)の元へ身を寄せ、数年後、そこで息を引き取った。

信長の母が信包の元へいくなら、信長の正妻も一緒についていってもよさそうなものだけど、そういう説はまだ出ていない。


安土摠見寺と大徳寺の養華院

法名から身元が判明していないなかで養華院(ようかいん)という人物がいる。

安土摠見寺の「泰巌相公縁会名簿」に養華院殿要津妙玄大姉という人物が信長公御台と記されており、慶長17年7月9日に亡くなったとある。

慶長17年は西暦で言うと1612年。

濃姫は信長より1歳年下の1534年生まれという説をとれば、78歳あたりで亡くなったことになる。


当時では長生きの部類。別人の可能性もあるが、本能寺の変から30年。

若い正室、あるいは側室なら他家へ嫁ぐことが想像できるので、養華院が濃姫であっても、とくに違和感はない。


いっぽうで養華院は寵妾、側室であるという説もある。

こちらもまだはっきり結論は出ていない様子。


まとめ

濃姫が織田信長と結婚した後の詳細は不明。

情報の正確性としてはあまり高くない書物などに、少し言及されているくらい。


本能寺の変前に亡くなった説よりかは、変の後も生き続けたほうがドラマがありそうで、長生き説を信じたい気持ちはある。

ここまで出てきた説を裏付けるように、本能寺の変で安土城から脱出、その後「安土殿」として信雄のところで世話になって、しばらくして出家して養華院と名乗った・・・というような文書でも見つかればいいんですけどね~。

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